近世の西坂本と中世の西坂本 ーその1ー 『紀伊續風土記』<第2回>
「根来山へ登る阪の麓なるを以て坂本の名あり西にあるを西坂本といひ東にあるを東坂本といふ東西相去ること十六町餘」と記す。(『紀伊続風土記』)
和歌山県岩出市には、現在37の大字の地名がある。その中の一つに東坂本の地名があり、現在も使われている。しかし、西坂本の地名は明治22年に根来村が誕生した際に消滅している。
根来村は、近世の8つの村が合併して誕生した村である。(川尻村・今中村・森村・堀口村・尼ヶ辻村・西阪(坂)本村・押川村・奥安上谷村)このうち、西阪(坂)本村と奥安上谷村以外の地名は、現在も地名として使われている。
岩出市で現在使われている地名の多くは、中世までさかのぼることができる。また、それら地名の範囲は、今日までほぼ踏襲されてきていると思われる。
しかし西坂本という地名については、近世における西坂本村と中世における弘田庄西坂本は別と考えた方がよいのではないかと思っている。
中世の西坂本は、根来寺の繁栄を支えた集落(村落)として、近世の西坂本村の範囲にとらわれず、もう少し広義にとらえた方がよいのではないだろうか。広義の西坂本とは、近世の西坂本村に隣接する村落の一部を含めた範囲と捉えたい。
中世における根来寺の坂本は、延暦寺の坂本同様、寺院を支える商人・職人等が集住する場所であった。そのことから、近隣の村落においても、西坂本(坂本)と称していた可能性があったのではないだろうか。
【岩出市の略歴】
・平成18年(2006)4月1日 那賀郡岩出町が市制を施行(那賀郡消滅)(令和3年は市政施行15周年)
・昭和31年(1956) 1町3村と小倉村内山崎、上三毛のうち船戸地区が合併し、町域が定まる
・明治41年(1908) 岩出村が町制施行
・明治22年(1889) 市町村制施行、上岩出村・岩出村・根来村・山崎村が成立
【根来村の略歴】
・明治19年(1886)地方行政区画便覧 川尻村・今中村・森村・堀口村・尼ヶ辻村・西阪本村・押川村・奥安上谷村
・紀伊続風土記 天保9年(1839) 川尻村(戸数:21、人口:85)、今中村(戸数:23、人口:73)、森村 (戸数:50、人口:208)、堀口村(戸数:17、人口:100) 尼辻村(戸数:6、人口:36)、西坂本村(戸数:190、人口:671)、押川村(戸数:12、人口:56)、奥安上谷村(戸数:41、人口:180)
・天保郷帳 天保4年(1834) 川尻村(石高:485石359)、今中村(石高:188石906)、森村 (石高:328石290)、堀口村(石高:188石235)、尼ヶ辻村(石高:96石462)、西坂本村(石高:1433石644)、押川村(石高:94石915)、奥安上谷村(石高:602石775)
・慶長検地高目録 慶長18年(1613) 川尻村(石高:487石943)、今中村(石高:189石661)、森村(石高:334石268)、堀口村(石高:188石241)、辻村(石高:96石497)、西坂本村(石高:1460石611)、鴛川村(石高:95石049)、東安上谷村(石高:621石272)(以上、出典『和歌山県の地名』日本歴史地名体系31より)
【読んだ本】
仁井田好古『紀伊續風土記』(一)
『和歌山県の地名』日本歴史地名体系31、1983年、平凡社
武光誠『地名の由来を知る辞典』1997年、東京堂出版