近世の西坂本と中世の西坂本 ーその2ー 国史大辞典 <第3回>

根来寺の門前町であった近世の西坂本における埋蔵文化財の調査事例から検討すると、中世の街並みは近世の街並みよりもその範囲が小さかったと推察される。また、鉄砲鍛冶が行われていた遺構なども検出されてはいない。埋蔵文化財の調査事例が少ない中での検討ではあるが、『紀伊国名所図会』に描かれている西坂本の賑わいは近世後期における町屋の様子であり、中世の町屋の様子とは異なるのではないか。

私の中では、中世の根来寺を支えた商人や職人が根来寺の門前に集住しているイメージが先行していたが、根来寺を支えた職能民たちは、根来寺の門前だけではなく、むしろ西坂本の各所にそれぞれ集住していたのではないかと考えている。

では、根来の鉄砲鍛冶は西坂本のどこで鉄砲を製造していたのであろうか。その謎を解く地名として、岩出市今中に「鍛冶垣内」という小字がある。今中は近世の今中村にあたり、近世の西坂本村の東に位置する村である。地元の方たちにはよく知られている地名である。ちなみに、現在の岩出市内において「鍛冶」のつく地名を残しているのは今中以外にはない。西坂本に住していたと記録に残る鉄砲鍛冶や刀鍛冶などは、この地名の場所近辺に集住していた可能性が考えられる。

「垣内」という地名と「鍛冶」について調べてみた。

・「垣内」について
「古代・中世において、比較的小規模な開発耕地の周囲を垣でめぐらし開発者の占有を示したもの。(中略)中世では、カキウチ・カイトの呼称がならび行われている。」
「現存するものについてその内容を分類すると、(1)地域結合、(2)部落共有林、(3)同族集団、(4)屋敷地の一部分、(5)一区画の屋敷地、(6)区画された一団の耕地、(7)一区画の原野、(8)地字(ちあざ)名、(9)屋号などとなる。」
「(中略)占有者や地形・地物の名前・特徴を冠して、何々垣内といわれるに至ったとみられる。かような屋敷および屋敷畠と水田との組み合わせよりなる個人垣内(一戸で一垣内)から、隣保垣内(数戸の農家群)、ないし部落垣内(旧大字または小字・組単位の地域呼称化)への推移も想定しうる。」

・「鍛冶」について
「金属鍛造つまり打物の技術をさしていたが、その技術をもつ職人のことともなった。番匠とならんで、その専業化の早い職人の一例である。(中略)鍛冶生産品に対する需要の増大に応じて、農民層から分化したものが主流をなすものであった。」
「処理・加工する金属の種類による分化、生産品の種類による分化も見られるのである。銀加工の銀鍛冶・銀細工、銅加工の銅細工、鉄加工の鍛冶というように、鍛冶は主として鉄加工の手工的技術者をいうようになってきていた。そうした鍛冶のうち、まず刀を生産する刀鍛冶、ついで、中世になって農具を生産する農具鍛冶、さらにその後期に鉄砲鍛冶、近世になって包丁を生産する包丁鍛冶というように分化していった。」
「製鉄の原料は砂鉄であったが、野たたらによって精錬されていた。それは野天での作業であり、粘土でつくった炉形でここに砂鉄をいれて両側から手挽(てびき)ふいごで送風して精錬したものである。」
「一部のものは領主の保護と統制のもとに、大部分のものは一般の顧客を対象に、都市や村落で、その手工業的生産と経営をじぞくさせてきていた」

中世における西坂本の鍛冶垣内は、さしあたり(3)同族集団、(4)屋敷地の一部分、(5)一区画の屋敷地、(8)地字(ちあざ)名、の分類のいずれかか、いくつかの分類の複合的な意味があったのではないかと思われる。そして、鍛冶場では野たたらによって鉄が精錬されていた。

当時、鉄の原材料である砂鉄はどのようにして入手していたのであろうか。様々な疑問が残るが、土地に刻まれた歴史に目を向けていきたい。

【読んだ本】
『国史大辞典』第3巻、1983年、吉川弘文館

【今後読んでみたい本】
 柳田国男『地名の研究』(『定本柳田国男集』20)、同「垣内の話」(同29所収)
 直江広治「垣内の研究」(『東京教育大学文学部紀要』16・26)
 遠藤元男『日本職人史』
 飯田賢一「製鉄」『日本科学技術史』(朝日新聞社編)所収

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です