信長が愛した黒人侍「弥助」の謎 伊東潤・ロックリー・トーマス <第11回>
伊東潤・ロックリー・トーマス
『文藝春秋』2021年8月号
弥助は、16世紀中頃のアフリカに生まれ、イエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノとともに来日。織田信長に仕え、本能寺の変に巻き込まれるも明智光秀に命を救われた黒人侍。
弥助が信長に仕えたのは本能寺の変の前年にあたる天正9年(1581)からわずか1年半たらず。
ロックリー氏は、『信長公記』の中で「強力十の人に勝れたり」と弥助のことが書かれていると紹介されています。
また、堺市博物館が所蔵している「相撲遊楽図屏風」の中でも真ん中で相撲を取っている黒い人物が弥助だとみられているとも紹介されいます。(「相撲遊楽図屏風」は1640年頃に描かれたとされる屏風です。)
弥助の出身地はスーダン?
最近の研究として岡美穂子氏がイエズス会の書簡を読み解いて、ヴァリニャーノがモザンビークで黒人奴隷をもらったという記述を発見されました。ロックリー氏は、これが弥助本人かどうかははっきりしないといいます。そして弥助と会ったことのある徳川家康の家臣、松平家忠の日記を紹介しています。家忠の日記には、6尺2分(約182センチ)と高身長で、肌の色は墨のように黒いと綴られています。
この点についてロックリー氏は、モザンビークの人々は意外に背が低く、肌も真っ黒ではなくて茶色であることを指摘し、モザンビーク出身説に疑問をなげかけ、アフリカ各地の民族を分析した結果、弥助はアフリカ南東部のモザンビークではなく、北東アフリカの南スーダンやエチオピアの可能性を指摘されています。
戦国を象徴する存在
伊東氏とロックリー氏は、日本史上から忽然と姿を消した弥助について、彼の存在はのちの為政者にも影響を与えているといいます。
南蛮文化や科学技術を伝える一方で、日本のキリスト教国化を目指したイエズス会を知り尽くしている弥助の影響力は大きかったと捉えられているからです。黒人の情報網は徳川時代でも重宝されていたとロックリー氏は指摘されています。
弥助は信長のセキュリティサービスの役割に加え、信長による世界進出の象徴、「相撲遊楽図屏風」に描かれたように娯楽の場などでも活躍するような存在だったようです。弥助を見れば分かるように、戦国時代の為政者は、海外から多種多様な人材を受け入れる懐の深さがあったと両氏は言います。
ロックリー氏は日本大学の授業でタイに渡った山田長政など海外で活躍した日本人を題材に取り上げているそうですが、学生からの一番人気は弥助なんだそうです。
加藤清正にも「くろほう」と呼ばれた黒人の家来がいたようで、清正は九州と朝鮮半島、フィリピンを結ぶ貿易に力を入れていて、「くろほう」はその管理者を務めていたそうです。また彼は結婚して子供もいたことが分かっています。
弥助は、信長に仕えていたことから、後の世でも弥助は価値のある存在だったと思われます。そもそもイエズス会の宣教師とともにアフリカからインドやマカオを経て日本に渡ってきたというだけでも当時としては貴重な経験を積んでいる人物であると言えます。
今まであまり関心を持っていなかった歴史上の人物ですが、戦国時代を象徴する外国人としての弥助に今後注目していきたいと思います。
【弥助に関する史料】
・イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡
・太田牛一『信長公記』
・『松平家忠日記』
・ジャン・クラッセ『日本西教史』
・フランソワ・ソリエ『日本教会史』
【今後読みたい本】
・ロックリー・トーマス『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』太田出版
・伊東潤『王になろうとした男』文芸春秋